※1 横浜中華街の始まり
横浜に港が開かれた1859年当時、中華街のあたりは横浜新田と呼ばれていた。当時横浜はアメリカ・イギリス・フランスなど、諸外国から大勢の商人がこの地を訪れ、外国人居留地において商館を開き、商取引により発展した土地をつくっていった。港町横浜には世界各地の人々が訪れ、なかでも上海や広東からも大勢の華僑が海を越えてやってきた。上海や香港において西洋人を相手にビジネスをしてきた彼らは、日本と西洋とのあいだに立って商業における仲介者の役割を果たしていた。上海・香港とのあいだに定期航路が開催されるとペンキ塗装、洋裁、欧文印刷など、当時の先端技術を身につけた中国人が横浜を訪れる。また北海道産の海産物を香港・上海に輸出したり、砂糖を台湾から輸入する華僑貿易商が現れるようになった。居留地が撤廃されることになる明治32年(1899)までには、横浜の華僑人口は約1000人に増え、20世紀初頭には約5000人に膨らんでいた。
左:春節前で賑わいをみせる中華街大通り
中:中国建築様式の「會芳亭」は山下町公園内に
右:電信柱はどれも下4メートルほどまで赤く塗装されている
※2 風水にもとづく門「牌楼(パイロウ)」
古来より中国では、皇帝が王城を築くときなどには天文博士に天意を伺っていた。これは城内に侵入してくる邪を見破るため東西南北に限り通路を開き、それぞれに門衛をおいたといわれている。各門は陰陽五行にもとづく青・赤・白・黒に塗り分け、さらに方位の守護神(青龍・朱雀・白虎・玄武)を据え城内の繁栄と安全をはかった。
写真:各牌楼ごとに特徴的な装飾が施されている(写真は天長門)
※3 関帝廟
明治6年(1873)、横浜市中区山下町140番地付近に居留民によって日本で最初の小さな廟が建設された。これが関帝廟の始まりとされている。明治19年(1886)には境内を拡張、その8年後には大改築が行われレンガで周囲を囲み、荘厳な牌楼、廟内の装飾に彫刻と見る者の目を眩わすほどの絢爛豪華ぶりで居留民の心のよりどころとしての存在であった。その後大震災、第二次大戦の戦災、そして1986年元旦の原因不明の出火により消失してしまう。4代目となる現在の関帝廟は、堂屋・堂宇の装飾、構築部分を中国本土から取り寄せ、工匠を来日させ、中国伝統建築工芸の結集ともいえる佇まいとなった。
左:絢爛豪華な4代目関帝廟
中:関羽の活躍物語を彫った「観音石龍柱」
右:艶やかな極彩色がひときわ目立つ「北京瑠璃瓦」
※4 九龍陳列窓と九龍壁
中華街の街づくりの一環として設置されたこのスペースでは、中華街の情報のほか中国文化に関する情報を発信している。後ろの壁面が九龍壁で北京の北海公園内の九龍壁を参考につくられたもの。原料は北京特産の粘子土・頁拉石と頁岩を用いてある。長23.16m、高さ3.74m、厚さ14〜64cmある北海公園の約半分のサイズに縮小された照壁である。
左:飾りの向こうに九龍壁
右:春節を祝う飾り付けがしてある